FuD 2004.06. 月曜のバー
 どうも月曜日は難しい。彼は、今日の仕事を終えて、いくつかの書類を机に叩いて揃えながら、なんとなくそわそわするような、落ち着かない気分で過ごした一日を振り返った。新しい一週間がスタートしたのだから、気持ちを切り替えて行こうと思うのだが、朝からばりばり仕事をするにはまだ先が長い。徐々に動き始ようと思っているうちに、そのまま午後になり、やがて夕方になり、結局エンジン始動のきっかけをつかめないまま、一日の仕事を終えてしまった。
 だが、彼もこんな気分を明日にまで引きずるわけにはいかない。彼は改めて一週間を出直そうとバーへと出かけることにした。「月曜から飲みに行くの?」と冷ややかに言う同僚もいたが、彼にはむしろ、その月曜というのが大事なのだった。軽く何か飲んで一週間の体調を整えようというのだ。

 コトリ、コトリ。靴音の鈍い反響を確かめるようにして彼は階段をのぼっていった。
上りきってすぐのところに、慣れ親しんだアフターファイブの木の扉。ドアを引いて中に入ると、青いネオンに照らされたカウンターの奥でグラスをいじっていたマスターが、「ああ、来ましたね。」という顔で迎えてくれた。マスターが、口を両端にのばして、ひげの形を優しく変えるのをみて、彼はカウンターへと座った。
 彼は、月曜日は黒ビールからはじめることに決めている。週末の居酒屋ならとりあえず生というところだが、少し抑えてスタートしようというわけだ。マスターもそれは心得ていて、「これでいいですか。」と言って、彼の前にギネスの缶と空のグラスを置いてくれた。マスターは彼の目の前で、ギネスを400のグラスへどぼどぼと勢いよく注いだ。焦げた色の液体が一本の線になって落ちていき、瞬く間にグラスは泡でいっぱいになる。グラスの泡が1センチくらいになるまで待つためにマスターが一旦缶を横におくと、彼はじっくりとギネスの黒を見つめた。彼は、泡が静まるまで待つこの時間が好きだった。泡がぷちぷちと音をたてるうちに、次第にビールの黒との境界線をはっきりとさせていく。彼はそれを眺めながら、二重の層になったこの重く暗い黒のなかに、何か想像もつかない力が秘められているように思うのだった。そして、黒酢や黒糖の健康への効果と比較し、月曜に黒ビールを飲むことと関係づけ、半ば都合よく解釈し、満足するのだった。やがて泡が静まり、残りのビールがゆっくり
と注がれる。きめ細かな泡が溢れんばかりにグラスの上に盛り上がった。
 クリーミーな泡を彼は唇で噛むようにして味わう。。焦がした麦の苦味がストレートに口中を満たした。一息つくと、スモーキーな心地よい香り、ゆったりとした甘い余韻が彼の全身を包んだ。ギネスは、本場のアイルランドではあまり冷やさない。常温で飲むビールは甘味が感じやすくなる。彼は飲むたびにそれを新鮮な味のように思った。
「ギネスは、ギネスブックのあのギネスのことですよ。」
彼ははじめてこのバーに来たときに、マスターにそう教えられたのだった。
「ギネスブックはもともと酒の席でのヨタ話のために発行されたものなんです。なかにはほんとにすごい記録もありますが、ほとんどがだから何?ってのが多いでしょう。まー、今でいうトリビアみたいなもんですかね。」
と聞いて、彼は「へぇ」と頷いたものだった。
 ねっとりした喉ごしと胃に落ちていく重厚な黒の感覚に彼がひたっていると、ふと、何かが窓ガラスに当たって小さな音がするのが聞こえた。ひとつ、またひとつ、続いてさらさらと豊かな量で落ちてくる。音は広がり、響きとなって、窓以外にもくまなく落ちていった。雨である。梅雨の時期は蒸してはいるが、気温はまだ高くならない。キュンと冷えた生をゴクゴク飲むにはまだ早かった。ぬるいくらいの黒ビールを、泡
をすするようにしてちびちびやるのがちょうどいいのだった。

 ギネスは、うまい具合に彼のアペリティフとなった。にわかに食欲が湧いてきて、彼はベーコンのたっぷり乗ったピザを注文した。かりかりになるまで焼いたベーコンとチーズは黒ビールによく合った。だが、ピザにギネスオンリーというのも少し食べにくかった。彼はほんの少し変化をつけ、ギネス1に対して生ビール1のハーフアンドハーフにしてみた。ちょうど黒白中間で、ロゼワインのようにピザにはもってこいの味わいになった。ひじをつき、ピザをかじりながら、ハーフアンドハーフで流し込む。
 彼はようやく調子をあげてきて、いろんな酒を試してみたくなり、ドリンクメニューを上から順に眺めはじめた。が、それからふと思い直して、月曜日の酒だからと再び自分に言い聞かせるのだった。日曜の気分を月曜にすっきり転換することが彼にはうまくできなかった。金曜から土曜へはうまく滑り込んでいけるが、日曜から月曜への変化には乗り越えるべき何かがあった。彼は、子供のころからくり返したその感覚に
親みながら馴れず、いつもうまく乗り越えられるわけではないのだった。その移行にほどほどの酒が有効だと気付いたのは最近のことである。それに失敗すればずるずると一週間がうまくいかないこともあり、あまり飲みすぎるわけにはいかなかった。

 彼はゆっくりとリストを閉じ、そばに置いてあった鞄に手をかけた。
「まだ早いじゃないですか。」
マスターにそう言われて、彼はあいまいにうなずきながら、すぐには決めかねるのであった。確かに、時間はまだ早いし、ビールだけというのも寂しいか、だが、また明日からの毎日がある、とは言っても…といった様子で、唇の赤い部分が見えなくなるほど強く口を引き締めて、固まったように考え込んでいる。まだもの足りないが、勢いづいて飲み過ぎるのを避けたいときのあの迷いである。「アペリティフに対して、
ディジェスティフ(食後酒)という言葉もありますよ。甘めのもので締めくくっては
どうですか。」
結局、彼は、食後酒という優雅な響きに惹かれて、もう一杯だけ飲む理由として納得するのだった。
「では、こんなバカルディはどうですか?」
 マスターが出してくれたのは、クラッシュアイスを入れたダブルのカクテルだった。
本来は淡いピンクのショートカクテルだが、彼のものはごつごつした大振りのロックグラスだった。キューバのラムメーカー、バカルディ社のラムとライムジュースにグレナデンシロップを加えた、飲み応えがあるハードなものである。それがダブルなら、彼の締めくくりとしては十分である。
 ライムのさわやかな香りとラムの強い酒精を感じながら、彼は、マスターにひとつのエピソードを聞いた。このカクテルは、バカルディ社以外のラムで同じレシピを作ればピンクダイキリになる。かつてニューヨークのバーで客がバカルディを注文したところ、バカルディラムを使わずに作ったとして訴えられたことがあった。その裁判での「バカルディは、バカルディ・ラムで作らなければならない」という判決が、バカルディの名を一気に世界に広げたという。彼は、この大胆で個性的なエピソードには、繊細なショートグラスより、クラッシュアイスとごつごつしたグラスが似合っているように思った。見ると、淡いピンク色は、カウンターライトに照らされて情熱的な赤みを増している。話に聞き入るうちに、グラスのまわりには細かな水滴が付いて
いて南国の暑熱を思わせた。「バカルディ・ラムでつくらなければならない」という個性を認める力強い断定に、彼は自分を鼓舞されるような気さえした。満足のいく一杯で、彼は店をあとにした。

 外へでると、雨がひときわ激しく降り始めた。雨音ですべての音が消え、一瞬にし
てアスファルトは飛沫で白くなる。道路の縁に小さなを流れができ、溝には細かい泡
溢れた。雨はすぐに静かになったが、屋根の色は濡れて濃くなり、駐車場には無数の
水たまりが残った。窓に張り付いた水滴が、ビルの赤いネオンに照らされて壁にまだ
ら模様の影を落としている。
 明日は火曜日。もうすぐ夏である。