FuD 2004.08. 海
 通りは、先のほうがゆらゆらと揺れていた。ビルの壁やアスファルトに昼の灼熱がしみ込んでいて、日が傾きかけてもなおその熱気は膨張を続けているようだった。いつもなら、これから夕刻の客足を見込んで精を出す商店主、たぶん夜の勤めに向かうであろう着飾った女性、繁華街の目覚めのような時間帯なのだが、今日はしんと静まりかえっている。どの店もシャッターが下りている。そう、この街の火曜日はいっせいに定休日となるのだ。街は、暑熱の倦怠のなかにひっそりとする獣のように静かだった。彼は、今夜の酒を買うつもりで通りを歩いていた。閉じた店が並ぶなかでも、このなじみの酒屋だけは開いているはずだった。が、その酒屋も今日はシャッターを閉じたまま、本日休業の看板をぶら下げていたのだった。彼はアレレといった表情で立ち尽くした。この酒屋はこじんまりと家族で営業しているため、日曜が定休のはずだった。だからいつも火曜は、飲み屋でちょいと寄り道という誘惑もないぶん、この酒屋で自分のためだけに少し冒険するような気持ちで、酒そのものを味わえるような1本を選んで帰るのだった。この酒屋の主は彼の高校時代の友人である。そこそこ今どきの品揃えで、彼にとっては酒においての良きアドバイザーとなってくれている。が、両親もまだ健在ということもあり、ときどき仕事を抜けて遊びに出かけるのを彼は知っていた。彼はいぶかしげに酒屋の二階の彼の部屋を見上げて考え込んだ。人のいる気配はないが、とりあえず彼は友人に電話をかけることにした。
「モシモシ?」
「オー、なんだぁー?」
「今日は店開けないの?」
「いやー、こんなに暑いのに仕事なんてやってられないよ。ちょうどまわりの店も定休だし、ちょいと海ってことになったんだ」
友人は何人かの仲間と海でバーベキューをしていたのだった。まだ明るいからオマエも来い、色気はないが、酒ならあると言うのだった。彼は、いつものことだが、週の始まりから深酒という罪悪感から月曜日は酒を軽めにしているのだが、その反動というのだろうか、火曜日はやけに強い酒精がほしくなる。今夜はロックでキューっと焼酎でもと思っていたのだった。酒屋のことだ、なにかいい酒を用意しているかもしれないなと、少し期待し、海へ行くことに決めた。

 海までは道路一本である。潮の匂いが辺りいちめんに漂いはじめると、遠くからでも海の接近と特異性を感じるものである。近づくにつれ、松の気丈な針の先がはっきりと見え、道路わきの土が砂に変わっていく。木々に挟まれた道から浜へ出ると、帰り支度をする人々、浜茶屋横のシャワー室に長く連なっている人、多彩な色の裸形で賑わっていた。火曜日の静かな町とはうってかわり、そこはいかにも夏の楽園のようであり、次第に彼の動機は激しくなるのだった。大きな岩場の近くに、パラソル2本、折り畳みテーブル1台。それを囲んで並べたいすに友人たちがすわっているのが見えた。彼はまだ熱く、柔らかい砂浜を歩いていった。一足ごとに足の甲まで砂で埋もれ、早く行こうとすると砂を蹴り揚げるようにしなければならない。友人たちの岩場に着くときには、彼はすっかり汗ばんでいた。

 「案外早かったネ、まずは一杯」と友人がプラカップに注いだ生ビールを差し出した。缶ビールではなく、飲み屋に置いてあるような生樽から注いだものだった。ビールは日に照ってより金色に光り、次々と涼し気な泡を沸き上がらせている。友人はサーバーの取っ手の部分を指さしながら言った。「これは氷サーバー。ここに氷を入れてネ、ビールがピューって通ってネ、冷たくなって出てくるわけ。こんなところで生が飲めるなんて最高だヨ。これだけでも海に来た甲斐があったってもんだヨ。」彼はそれを泡も金色もまとめて、ごくりと飲み込む。冷たい金色の液体は弾けながら喉を転がり落ちていき、たちまち胃の襞にしみ込んでいく。彼は友人の「海に来た甲斐」という言葉に、確かに、と頷くのだった。コップの内側に張り付いた白い泡が、生物のように鈍く形を変えながらゆっくりとビールの表面に下りていった。

 彼は、いすをさらに海に近く引っ張っていき、そのいすの上にゆったりを体を休ませた。やわらかにそよぐ浜風が心地よい。宵も近いなぎさの光景、人々が水際でのんきに楽しんでいるこの眺めは、彼を楽しませ喜ばせた。灰色をした浅い海には、ぴちゃぴちゃやっている子供や、泳いでいる人や、両腕を頭の下に置いて砂に寝そべっている人や、波打ち際で彼と同じようにいすに体を預けながら、波に濡れた片方の足で砂に何やら書いている人たちがいた。遊びたわむれる動きとごろごろ寝そべっている安息場所柄の無拘束を楽しむ姿の背後に夜が近づている静寂さがあった。彼は目を遠い沖合のほうへさまよわせた。その視線を茫漠とした単調な波の上で、滑り去らせ、もうろうとさせ、消えさせた。彼は目を閉じて、宵が迫りつつある海に耳をすましていた。
 香ばしい磯の香りで彼は振り返った。テーブルのそばの七輪で、サザエがくつくつと音をたてていた。友人たちがビールを飲みながら焼きサザエをつまんでいた。彼に気付いた友人が、青と黒で塗られたラベルのびんと氷を入れたプラコップをもって彼に近付いてきた。「オマエには泡盛だヨ。いつも言ってるよな、火曜日は強めの酒を飲るんだと。たまたまだけど、海に似合うデザインだと思ってこれ持ってきてたんだ。」それは海とも空ともとれるモチーフのデザインで、勢いのある太い墨字で「沖の光」と書いてあった。コップへと注ぐと、氷がピキピキと音をたて、液体のにわかな引き締まりを感じさせた。口のほうへ近づけると、そのデザインにふさわしい爽やかな香りがした。一口目、泡盛は彼にはかなり辛く感じられた。30度のものらしい。泡盛は、タイ米を全量黒麹にして仕込み、発酵、蒸留したものである。全量を黒麹で仕込むことにより、アミノ酸やクエン酸など種々の酸がより多く形成され、その旨み成分によって焼酎にしてはコクがあり味わいが深くなるのだ。またその香ばしい香りには日本酒の古酒にも似たものを感じさせられるが、その酒精は強く、口中をよく刺激する。「で、これを」友人が差し出したのは、七輪に乗せる前の、採れたての生のサザエだった。身を抜いて、海水で洗っただけの刺身である。彼は、小振りのものをひとつつまんで口に入れた。瞬間、磯の香りがふわっと鼻から抜けた。コリコリと噛み締めると、海水の塩味とサザエ本来のほのかな苦味で口が満たされる。そこへ泡盛をすすると、ほんのり甘く、塩味と苦味をさっと流してくれるのだった。泡盛は沖縄のゴーヤチャンプルや肉料理と相性がいい。が、島の酒なので魚介類にもピッタリ合うのだった。やはり酒はその地方の食べ物と相性がいい、言いかえれば地方の食文化に合うように酒が作られているといっても良い、ということを再認識させられる一杯である。
「次は割ってみよか。」と、友人はクーラーボックスからオレンジとレモンを取り出した。ダイバーナイフでざっくりと半分に切り、慣れた手付きで、泡盛を足したコップにぎゅっと絞り込んだ。「ホントは、シークワーサーという沖縄のレモンがあれば良かったんだけどネ」口元まで運べば、たちまち南国の香り、カクテルのような洋物の味わいとなった。レモンの酸味とオレンジの甘い香りのお陰で、酒精の強さはまったく感じない。
 彼は眩しい夕陽を全身に浴びながら、古い洋画のワンシーンを思い浮かべ、南国の浜辺でまどろむ錯覚を楽しんだ。日は既に傾き、赤い太陽は水平線に今にも接しようとしている。海と空は混じりあい青い空はすでに薄い黄色に変わり、境界をぼかしてひとつの色になっていった。頭上にはうっすらと月が浮かび上がっていた。