FuD 2004.12. ボジョレー
 いちょう、カエデ、さくら、いちょう…。
 歩道のまばらな落ち葉を踏み踏み彼は歩いていった。通りの両脇の木々は、葉がほとんど落ちてしまっている。むきだしになった枝が、花や葉が生い茂っている時よりいっそう複雑で個性的な形をみせていた。彼は、賑やかな繁華街を抜けて、友人宅のマンションへと向かっていた。12月の半ばを過ぎると仕事上の忘年会も増えるので、早めに友人同志で集まろうというのだった。
 「ボジョレーヌーボー入荷!」
 ふと、通りの先にある看板の赤色の電光文字が目に入った。何度も通ったことのある通りだったが、今までそこにあると気付かなかった小さな酒屋である。ボジョレーヌーボーの文字が、細かいライトに縁取られて光っていたので目についたのだった。
 彼は、今年のボジョレーは、11月第三木曜の解禁日に恒例のお祭り騒ぎのなかで少し口にした程度である。ヌーボーは季節もの、今しか味わえないからもう一本くらい飲んでみようと、軽い気持ちで店へと入っていった。

 こぢんまりとした店内には、酒瓶がびっしりと、しかし整然として並んでいた。彼が入っていくと、奥のレジカウンターにいた店の女主人が気が付いて、「いらっしゃい」と言って立ち上がった。黒いセーターに黒のパンツ、スリムで、いかにもワインが似合いそうな美人である。彼は気おされたように黙ったまま軽く頭をさげて、ヌーボーのコーナーを探しながらきょろきょろとしたが、すぐに、レジカウンターの横に10本ほどだけ残ったヌーボーを見つけ、女主人の横にしゃがみ込んでヌーボーのラベルを眺めた。
「ボジョレーヌーボーですか。たくさん仕入れてたんですけど、もう残りこれだけになっちゃって…」
女主人が、優しい顔で微笑みながら、やんわりした口調で言った。彼は、あわてて目線をそらすように、残ったボジョレーを指差しながら言った。
「これとこれは、値段が違いますけど、味も違うんですか?」
女主人は、静かに身をかがめ、指で長い髪を耳にひっかけながら、ボジョレーのラベルを覗き込んだ。
しばらく沈黙してから彼女はゆっくりと話した。
「こちらのほうは、よく見かける普通のヌーボーです。ヌーボーらしいジューシーな感じで、これでも十分おいしいんですよ。でも、こちらの高いほうは、これがヌーボー?という感じで、ブルゴーニュのどこかの高級ワインかとくらい思うくらいなんです。」
 彼がこれまで飲んだボジョレーは、2000円程度の気やすいものばかりで、それに比べると、その高いほうは倍近い価格だった。彼は、ほんの少し考えてから、ちらと女主人のほうを見た。彼女は、口元に微かな笑みを残したまま、首をやや傾けるようにして彼の返事を待っていた。彼は、少し顔を赤らめながら、ほとんどおずおずした声で
「これを」とだけ言った。
 女主人はヌーボーを入れた袋を静かに、丁寧に、贈り物を渡すときのように斜に傾けながら彼に手渡して言った。
「すぐにお飲みになるんでしょう。横に氷を入れておきました。普通の赤ならこの季節は常温でちょうどいいんですけどね。」
それから、彼は、女主人の小さな、白い手のひらに金をのせるとすぐに、「ありがとうございました」という女主人の声を後ろにして、忙しく店を飛び出してしまった。
 外に出て、暗い細道を歩いていると、彼は改めて女主人の丁寧な心遣いに驚くのだった。普通の赤ワインの場合、冷やせば冷やすほど渋みが強調されるが、ボジョレーヌーボーは、渋みが出ないような作り方をしているのでその心配がない。ほんの少し冷やすのがベストである。それにしても、なぜ、すぐ飲むと分かったのだろうか、我慢できないような顔をしていたんだろうか、なんだかおどおどして変じゃなかったかしら…。彼は、手に提げたボジョレーの袋を見て考えながら、友人宅のマンションへと向かった。靴の下で、乾いた落ち葉がしゃりしゃりと音を立てていた。

 マンションのドアを開けると、家主のTが玄関で彼を迎えて言った。
「遅かったな。先にはじめてるよ。どこか寄ってたのか?」
「通りの酒屋でボジョレー買ってきたんだ。」
彼はそう言って、袋を軽く持ち上げてみせ、そのまま部屋のテーブルの上にボジョレーの瓶を置いた。テーブルには、友人二人が始めていた焼酎と、すし、ピザ、やきとりなど、テイクアウトものがどさりと乗せてあるTの部屋はテーブルとソファがあるだけで、あとは四方の壁に沿って本が積み上げられるままになっている。友人のMは、積みきれない本が乱雑に散らばるなかに座って飲んでいたが、ボジョレーをみると立ち上がり、ボトルを手に取ってラベルを読みはじめた。
「アンリーフェッシーのヴィラージュか。ボジョレー地区に数あるワイナリーのなかでもトップクラスの名醸だよ。ノンフィルターというのは、日本酒でいえば無ろ過生ってことだから、とりわけ厳選されたものを瓶詰めした上物だよ。」
 Mはワイン通で、ソムリエの資格まで取る熱の入れようである。ボトルのラベルをみてそのワインを判断できるのはさすがである。彼はよく分からないまま酒屋で買って来てしまったのだが、Mの言葉を聞いて、モノがいいことに安心するのだった。
「トラディッションは、先祖代々が飲んでいたワインをイメージして造られたとされている。いいの買ってきたな。高かったろ。」
「まあ、少しね。たまにはいいかと思って。」
彼が答えると、Tがグラスを出してきて彼の前に置ながら言った。
「すぐそこの酒屋か?あそこは意外と品揃えがいいよな。店主も美人だし。」
Tは彼のほうを探るようにみて、意味ありげに目を細めてみせた。彼は、それには答えず、ま、とにかく、開けてみよう、と言って、Mを促すのだった。
 するとMは、ボジョレーの前に、と言って冷蔵庫からボトルを一本取り出してきた。キャップシールの金色がいかにも高級そうな瓶である。
「乾杯するのにちょうどいいのを持って来たんだ。」
「シャンパン?」
「いや、これはクレマンドブルゴーニュといってブルゴーニュ地方のスパークリングワイン。シャンパンじゃないんだけどね。シャンパンはシャンパーニュ地方のスパークリングワイン、フランスではスパークリングワインはクレマンとかヴァンムスーとか言うんだよ。イタリアならスプマンテ、スペインならカヴァ。まあシャンパンが最高だけど、高いから、乾杯だったらこれくらいで充分かなと思ってね。」
Mは、すらすらとワイン用語をよどみなく話した。小さな部屋の、男だけの飲み会だが、その言葉の音にはある種の華やかさが交じる。ポ〜ンと、短く、ちょっと滑稽な音が部屋に響くと、軽やかな気分さえ生まれてくるのだった。
 鮮やかで濃いめのレモンイエロー。色も味もしっかりとしていてふくらみがある。はじめ、果実の甘味、後味はフレッシュでドライ。グラスを見れば、底から一筋の気泡が、華麗に、キラキラと輝きながら浮き上がっている。
「このグラス本物なんだ。」
「本物?」
彼が意味がわからないまま、それに続く答えを待っていると、Mがひきとって言った。
「本物のシャンパングラスは、底のところにわざとキズをつけてあるんだ。そうすると、そこからツーっと泡があがって綺麗なんだ。」
彼はMの説明を聞いて納得し、Tのこだわりに感心した。シャンパンとグラスの泡とそれらを巡る会話。狭いマンションの部屋のなかで、テーブルの上だけが、別世界のようだった。
「シャンパンを偶然発見した17世紀フランスの修道僧は『まるで星を飲んでいるようだ』とかなんとか言ったらしい。」
「炭酸が効いているスパークリングワインは、飲み口が良いし、胃の吸収も早い。本格的なスタイルのパーティーでは、ウエルカムドリンクとして供されたりしているんだよ。」
「相性の悪い料理はほとんどないから、今日みたいな適当な持ち寄りにもよく合うな。」
「あのナンバーワンソムリエの田崎真也も、フルコースを1本のワインでと言われたらシャンパンと答えると言ってるくらいだから」
 彼は、TとMの会話を聞きながら、星の泡粒を噛み締めるようにしっかりと口に含んで味わった。クレマンドブルゴーニュの柔らかな味わいと炭酸の刺激で、感覚の興奮が増していく。ボジョレーを抜くことになって、いよいよ期待が高まった。

 Mはまずキャップシールカッターで口を切り、続いてコルクスクリューで栓を抜く。
「このコルクスクリュー、いいんだよ、半端な安物じゃあ、こうはいかない。」
と言って、抜いたコルクをスクリューからはずし、鼻に近付けて軽く揺らしながら、「うん」と小さく頷いた。彼は、Mの手つきの自然らしいのにみとれた。普段はラフな格好でビールを飲んでいるところしか見たことがなかったが、白いシャツに蝶ネクタイを着て、コルクの香りを確かめるMを想像してみると、鼻の下に揃うひげが妙に似合っていることに気付くのだった。
 コッコッコッとかすかな音をたてながら、グラスの丸い湾曲の半分くらいまでボジョレー注がれた。Mは、まずグラスを蛍光灯の明かりに照らしながら言った。
「色、濃いねえ。深みのある紫色、ノンフィルターの証しである微かなオリ」
次にグラスをまわしながら、
「チェリーの甘酸っぱい香り、微かな香草の刺激的な香り」
と確かめ、それから、細心の注意を払うように、少しだけ、ゆっくりと口へ含み、
「フレッシュな葡萄本来のアタック、オレンジを思わせる濃厚な柑橘系の味わい、複雑で長い余韻。」
と締めくくった。
 Mのソムリエ独特のテイスティングコメントを聞いて、彼とTもそれぞれボジョレーを味わってみた。彼には、普通のボジョレーヌーボーより、渋みや甘味が複雑に口に残していくように思われた。今まで飲んでいたボジョレーは、ジューシー、フルーティという言葉がぴったりだったが、こちらは、より重厚な味わい。巨大な、苔むした木が鬱蒼と茂っている真っ黒な森の匂いとか、長い時間と多くの生物を吸い込んで、老いて深まった土の香りとかいったものさえ感じられそうだった。彼は、アンリーフェッシーのヴィラージュをブルゴーニュの高級ワインと言った女主人の言葉を思い出した。
あの人も相当ワインを飲んでいるんだろう、あの人ならまだ明るい夕方から飲んでいても優雅で、きっと似合うに違いない…。それから、その一杯を飲んだきり、彼はテーブルにひじをついて顎をのせ、じっと考え込んでしまった。

 何杯か飲みすすめるうち、やがてMはボジョレーだけではもの足りないといったように言った。
「ボジョレーにはこれだな」
そう言って焼き鳥の包みの中から牛串を選んだ。
「タレじゃなくて、塩コショウで。教科書通りなら、ボジョレーに相性がいいのはペッパーステーキ。だから、牛串にブラックペッパーでぴったりというわけだ。」
 ピリっとした刺激と果実らしい味わいが、入れかわり立ちかわり彼らの舌の上を通っていった。牛肉の旨味と胡椒の効いた味わいは、ボジョレーの若々しいパンチに見事にマッチする。飲んでは食べたくなり、食べては飲みたくり、ボジョレーはたちまち減っていった。MとTはますます熱を帯び、饒舌になり、勢いがついてくるのだった。
「それにしても、いいワインを選んできたな。金曜の夜に男だけで忘年会というのも寂しい気がしてたけど、こういうワインを飲むと華やかな気分になるな。」
「金曜日はジプシーの間では愛の日と決まっているんだがな。もともと金曜日の金は金星のこと、愛の女神ヴィーナスの日だ。」
「そういえば、ドイツ語のフライターク(金曜日)にはフライエン(求愛する)の語感が残ってるな。」
 ふと、Mは、何やら考え事をして黙って飲んでいる彼に気付いて言った。
「お前は、今日は珍しく静かに飲んでるな。」
「あ、いや、別に。それよりボジョレーもそろそろなくなるね。何か買ってこようか。」
彼は立ち上がって言った。出かけようとする彼をみて、TとMは互いに見合っては、「ははん」といった顔つきで言うのだった。
「ほ〜、さっきの酒屋に行くのか〜。」
「へ〜、店主が美人って言ってたあの酒屋か〜?」
 にやにや笑みを浮かべながら、何かを察したように二人は頷きあっていた。
「じゃあ、焼酎と適当なつまみ、それからワインももう一本、今度はボジョレーじゃないので何かおすすめしてもらえよ。高くてもあなたのおすすめならかまいません!ってな」
「ついでにフライエンしてこいよ!」